
◆天王祭の由来◆
尾張津島天王祭の車楽舟行事(昭和55年1月に国の無形民俗文化財に指定)
津島が誇る祭りの代表がこの『尾張津島天王祭』だ。500有余年の歴史を持ち、まさに時代絵巻きと言うにふさわしい『荘厳・華麗』な川祭り。
祭りは数ヶ月に渡って、様々な行事、儀式、神事が行われるが、祭りのクライマックスはなんといっても『宵祭』と『朝祭』だ。現在は、7月第4土曜日とその翌日に行われているが、古くは陰暦6月14・15日に行われていた。
津島牛頭天王社は、疫病・災厄除けの神。酷暑の夏に、疫病が流行しないように祈願する祭りが、牛頭天王の祭だった。京都の祇園祭、博多の山笠など、牛頭天王の祭礼がほとんどこの時期に行われるのは、そういう意味があってのことだろう。
宵祭は、二隻の舟をつなぎその中心に真柱を立て、そこに一年の月数十二個の提灯をつけ、半円形に一年の日数三百六十五個の提灯をつける。その他の提灯も合計すると、一隻あたり五百五十程度の提灯がつく事となる。(この舟を巻藁舟という)それが五隻なので、一回の祭りで最低でも二千七百五十個の提灯とロウソクを使用し、点灯する順番で、三種類の大きさがある。真柱と坊主の下側は一番大きく、五百五十個の提灯が最後まで灯っているようになっている。
ロウソクは、明治以前は高価な貴重品であり、このことからも祭りを支える地域の金銭規模が伺える。朝祭は津島の五隻に、佐屋町市江地区の『市江車』が先頭に加わる。市江車には十人の若者が締め込み姿で布鉾を持ち、途中から天王川に飛び込み泳ぎ、津島神社に通じる岸まで渡る。その後、神社まで走って神前に布鉾を奉納する。
朝祭の舟(車楽舟)の最高部には、能装束を模してつくられた衣装をまとった人形が乗るが、津島の五隻中、先頭を行く当番車には必ず『高砂』が乗る。その他の四隻は毎年能番組が変わり、毎年の楽しみの一つでもある。天王祭の「お囃子」と能の「お囃子」とは直接の関係はない。ただし、天王祭のお囃子のメロディ部分を参考にして能管による笛の独奏曲が作られている。その作品は現在も能の笛方である藤田・一噌・森田各流派において伝承されている。大多数の地方では「まつり囃子」で使われるのは篠笛だが、津島で使われる笛は『能管』という能の笛だ。
文献では、織田信長が津島によく来ており、津島祭りも当時の天王橋の上から見物をしたという記録も残っている。 他にも、大事な行事の一つに『神葭流し』がある。朝祭の終了後の深夜、社殿に奉斎されていた古い神葭を天王川に流すものだ。新しい神葭は津島神社本殿に納められ、一年間人々の祈願を受ける。
江戸時代、天王川が海に続いていた頃は、この神葭が、知多半島や三河湾に漂着した記録も残る。漂着した場では御社を建て神葭を奉り、近郷近在の信仰を集めた。
尾張津島天王祭は、祭りに直接関わる人のみならず、津島の人々すべての力により、五百年以上の歴史を刻んできた。これからも津島の大切な『歴史的財産』として、津島市民の誇りとして、永く後生に伝承していきたい。
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